無料ブログはココログ

紀要

2016年11月30日 (水)

近代日本人の中国留学史ー倉石武四郎を中心に

 くらし学際研究所は、2015年夏の大連スタディツアーで大連民族大学、東北財経大学を訪問したのを契機に、そのときにお世話になった先生方との交流を続けています。譚晧先生はそのお一人です。くらし学際研究所は、2016年夏に譚晧先生を日本にお招きし、豊中・神戸で講演して頂きました。譚晧先生からその講演録が送られてきましたのでご紹介します。なお、この講演録は譚晧先生ご自身が日本語で書かれたものです。

「近代日本人の中国留学史———倉石武四郎を中心に」
     中国・遼寧師範大学教育学部講師 譚皓

  皆様、こんにちは!ただいまご紹介に預かりました、中国から参りました譚皓と申します。まず、くらし学際研究所とNPOリタイアメント情報センターよりご招待いただき、改めて感謝の意を表します。
中国古典の『礼(らい)記(き)』には「獨學而無友則孤陋而寡聞」という言葉があります。つまり「一人で勉強しても、友人がいなければ孤独で得ることがすくない」、という意味です。
私はずっと一人で研究してまいりましたが、おかげさまでこんな自分の研究をご報告させていただける、ありがたいチャンスをつくっていただきました。心よりお礼を申し上げます。
私の専門は近現代中日関係史、とりわけ中国と日本両国の文化教育交流の歴史を研究してまいりました。在学中には、東京大学に留学したこともあります。その御蔭で、たくさんの貴重な一次資料を収集することができ、それに基づいて、近代日本が中国に留学生を派遣した歴史を研究して、博士論文も書きました。そして、2014年には北京大学から歴史学博士号を取得することができました。現在は故郷の近くにある大連という町の遼寧師範大学で専任講師をしております。


  さて、以上、簡単に自己紹介させていただきましたが、これから本題に入りたいと思います。今日は「近代日本人の中国留学史———倉石武四郎を中心に」というテーマでお話したいと存じますが、まずその背景として千数百年以上前の古代の日本人の中国留学からご紹介させていただきます。
皆様ご存知のように、7世紀初頭から9世紀の末にかけて、古代日本はおよそ三百年をわたって、延べ20回、中国に使節(いわゆる「遣唐使」)と留学生を派遣しました。なかでも留学生たちは中国語だけではなく、あらゆる中国文化を身につけて、帰国後には律令国家を作るため尽力しました。その中にはかの有名な阿倍仲麻呂や吉備真備などがいました。
ちなみに、当時の留学生たちが長安で勉強していた証拠として、一つ面白いエピソードをお話ししましょう。日本語には「馬(うま)」という字の音読みは「ば」と言います。音読みですから、もともとは中国語の発音です。しかし、現代の中国語では「ば」ではなく、「ma(v)」と読み、つまり「ま」と似ています。これは一体どうしてでしょう?実は「ば」という発音が当時長安のあたりの方言だったんです。その後唐王朝は滅び、中国の都も河南省や南京そして北京などに移りました。次第に、標準語も変わり「ば」という発音も変化し、「ma(v)」になったのです。千年以上も前に日本の留学生が長安で学んだ発音を持ち帰り、今の日本でも当たり前のように使っているのです。言い換えれば、千年前の中国語の方言はまた現代日本語に生きています。不思議だと思いませんか?
古代日本人の中国留学について、ここで詳しくお話する時間がありませんが、結論を申しますと、留学生たちは中国で教わった知識を使って、日本の律令国家を作るために偉大な貢献をしました。その影響は今も継続していると言っても過言ではありません。
しかし、894年に中国への遣唐使と留学生派遣が菅原道真の建議によって停止されました。その原因はいくつかがありますが、例えば三百年のあいだに日本はすでに中国文化を身につけていたので、わざわざ膨大な経費を使って中国に留学生を派遣する必要がなくなったのです。更に、当時の唐王朝は安史の乱の後にどんどん弱くなっていき、留学生の留学環境も悪化したので、結果として、日本政府は三百年にわたる留学生派遣を停止しました。その後、日本の僧侶たちは仏教を学ぶために再び宋朝に渡航したのですが(いわゆる「入宋僧」)、これはあくまで個人としての行為に過ぎませんでした。特に江戸時代に入ると、いわゆる「鎖国」政策が行われ、原則的に日本人の海外渡航が禁じられて、外国に留学することもできなくなりました。一言で言えば、9世紀の末から19世紀の末まで実に千年もの間、日本は中央政府の決定として中国に留学生を派遣したことがありません。
しかし、日本が改めて中国に留学生を派遣することを検討したのはすでに江戸時代の末期、「幕末」になってからでした。1853年の黒船来航後、およそ三百年続いた「鎖国」政策が崩壊し、日本はやむなく、「神奈川条約」(日米和親条約)(1854)や欧米諸国と安政五か国条約(1858)を結びました。以降、日本は積極的に外国と交流するようになりました。幕府は1862年にオランダに、1865年に帝政ロシアに、1866年にイギリス、そして1867年にフランスに相次いで留学生を派遣しました。留学生たちは見たこともない、日本語でも表現できない欧米の思想や文化を以前の中国文明と同じように必死に身につけて、日本に持って帰りました。例えば、欧米文化の中の最も重要な学問の一つである「philosophy」を、日本人最初のオランダ留学生である西周が遣唐使によって日本にもたらされた言葉を応用して、「哲学」と名付けて、日本に伝えました。この点から見ると、近代の留学生と千年前の留学生とはまたつながりがあったといえるでしょう。その後、アジアの一国である日本は急激に西欧に接近してゆくのです。
幕末から明治初期にかけて、日本は欧米列強を模倣して、中国と国交を結んで、通商することを考えました。中国と交渉するには中国語に堪能である人材が必要とすることは言うまでもありません。江戸時代に、幕府は長崎にいた唐通事を頼りましたが、唐通事は大抵南京語だけに堪能で、清王朝の標準語であった北京語(北京官話)ができませんでした。無論、当時日本の知識人は漢文によって中国人と筆談することができましたが、中国語を話すことはできませんでした。
中国語人材を育成するため、1871年に明治政府はようやく留学生を中国(当時の清國)に派遣し始めたのです。その後、陸軍省(1873年から)、外務省(1874年から)、大蔵省(1882年から)、海軍省(1883年から)、さらに文部省(1899年から)などが、同じく中国語人材を育成するためにそれぞれ中国に留学生(いわゆる「留華学生」)を派遣しました。
日本人の「留華学生」の出自や目的は様々ですが、その中には近代の日中両国の歴史において重要かつ特別な役割を果たした人物が少なくありません。例えば、井上陳政、(日清戦争後下関条約の通訳、義和団事件で歿)、中田敬義(外務大臣陸奥宗光の秘書として下関条約交渉を参加)、瀬川浅之進(日本駐漢口総領事、東方文化事業事務局長)、西源四郎(外交官、伊藤博文の娘婿)、服部宇之吉・塩谷温・宇野哲人・倉石武四郎(東京大学名誉教授)、狩野直喜・桑原隲蔵・鈴木虎雄・吉川幸次郎(京都大学名誉教授)などが挙げられます。そして、第二次世界大戦中ユダヤ人六千人にビザを発行したかの有名な杉原千畝も実は留華学生出身なのです。
更に、一部の人々は学術の交流と日中友好のために卓越した功績を残して、戦後の日中関係に多大な影響を与えました。倉石武四郎はその代表者です。
倉石武四郎氏は明治三十(1897)年新潟県高田市に生れ、1918年東京帝国大学支那文学科に入学し、塩谷温に教わり、1921年卒業し、同大学院の特選給費生となりました。しかし、雑誌で青木正児の文章を読み、その影響で1922年に「支那学」を標榜する京都帝大大学院に転じたのです。京大では狩野直喜教授に師事しました。1926に京都帝大専任講師になり、1927年に同助教授になりました。1928年に文部省の在外研究員として選抜され、同年3月18日に日本を出発し、3月23日に北京に到着し、1930年4月までの二年間、北京に滞在した。その後、私費留学生という身分でさらに四か月間を過ごし、1930年8月12日に帰国していました。倉石は、北京での留学生活の間、中国語と古典籍に関する研究に従事したほか、多くの中国人学者とも親交を深め、その激動の時代に多くの政治事件を経験しました。彼は帰国後、京都大学、東京大学で教育と研究活動に従事し、多くの中国語学習教材を編纂し、中国語の教育方法の改革にも取り組みました。また、戦後『岩波中国語辞典』や『岩波日中辞典』などの辞典編纂はもちろん、中国語教育を専門に研究する学術団体と民間学校(倉石中国語講習会、後に「日中学院」に改称)を創立して、中国語教育と研究を通じて日中友好に尽力しました。倉石はいくつかの分野で業績を残しましたが、とりわけ現代日本の中国語教育には第一人者だと言っても過言ではありません。
日中両国の学術界では、近代における日本人の中国留学に対してあまり研究がされなかった主な原因に、日本人留学生に関する資料が少ないことが挙げられます。
ありがたいことに、倉石は北京滞在中に多くの資料を残してくれました。なかでも、北京での最後の八カ月間、中国語で書いた日記があります。これは、1930年1月1日-8月6日の218日間の倉石の活動を詳細に記しており、その史料的価値はきわめて高いと言えます。
また、倉石は北京留学を終えて帰国したのち、文部省に「在外研究始末書」という報告書を提出しました。この「始末書」は倉石自身による中国留学生活の総括で、倉石の北京生活の全貌を把握できる様々な手がかりを提供してくれます。
さらに、倉石の北京での留学期間は、友人である吉川幸次郎の北京滞在期間(1928年4月-1931年2月まで)とほぼ重なるだけではなく、二人は同じ宿舎(延英舍)で過ごし、共に授業を受けていたことから、両者の回想を比較することで関連部分の空白を埋めることも可能でしょう。
これから、倉石が書き残した「日記」と「始末書」、さらに吉川の回想を通して、彼の北京での留学生活の主な活動を紹介していきながら、近代日本人の中国留学史について詳しく見ていきたいと思います。


(一)なぜ中国へ留学
先程、留学生を派遣する政府の意図を説明しましたが、今度は留学生の個人的な目的に注目してみたいと思います。倉石の目的は、単刀直入に申しますと、「話せる中国語」を勉強するために、中国へ留学したのです。
倉石は漢学者の家にうまれ、自然に家庭では幼少期より漢文に触れる機会が多く、中学のときには早くも中国語の勉強を始めていたようです。しかし、当時の勉強法は他の中国語学習者と同じように、漢文訓読法という旧式の訓練を取り入れていたのは言うまでもありません。
漢文訓読法は「日本語の発音をもって中国語の原文を読み、漢字のそばに訓点を表記し、中国語文法の順番をかえて日本語の古文のように読んでいきます。日本人にとっての中国語は、およそ外国語を読んでいるという感覚はありませんでした。
例えば、さきほど私が自己紹介で申し上げましたように、『礼記』(らいき)の中の「獨學而無友則孤陋而寡聞」を訓読すれば、「独り学びて友無くんば、則(すなわ)ち孤(こ)陋(ろう)にして聞くこと寡(すくな)し」と言います。
訓読という方法は漢文を読むとはできるが、中国語の発音と文法を学ぶには適当ではなく、本当の意味で中国語をマスターすることはできない、というのが倉石の考えでした。その後倉石は、中学、高校に入り、イギリス人教師が英語を教えるときに発音から入ることをみて、さらに驚愕しました。イギリス人教師から英語の詩、歌などを教わった倉石は大いに刺激を受けたのです。倉石は、英語教育が発音から始まり、学生に発音の面白さを感じさせ、学習者の興味を引き出すのと同じ方法で中国語も教授すべきだ、と考えたのです。
倉石は次のように書いています。
「英語やドイツ語の教科書はずいぶんむずかしいものをやらされた。それでもへたくそながら西洋人の読む通りに読んだはずです。そしてそれで意味はわかっていました。ところが漢文だけは、あるいは支那文学だけは、不思議なことをやっているものだと考えた。原文を見ながら、その漢字をひっくり返していちいち日本語にして読んだ。第一、とてもまだるっこくてしようがないということを感ずるようになりました。これがわたくしの生涯の一つの転機でした。」(出典:倉石武四郎『中国語五十年』、岩波書店、1973年、19頁。)
というわけで、倉石は漢文訓読という旧来の方法を捨てて発音から中国語を学ぼうとしたのです。しかし、子供の時から慣れ親しんだ漢文訓読という学習法をなかなか捨てることはできませんでした。ちょうどこの時に中国への留学という機会に巡り合い、倉石は中国語の発音をもって中国語を読む勉強法を実践する契機を掴んだのです。

(二)どうのように勉強する?
倉石は北京に到着したのち、個人教師と大学の授業という二つのルートで中国語の学習を進めました。到着して間もない時期から1929年5月までは個人教師による中国語学習に力を入れていましたが、その後は大学の授業を聴講する形で中国語の学習を重視しました。もちろん、大学の授業を聴講するようになった後も個人教師の指導を受けていました。
1.『紅楼夢』の講読で中国語の発音と会話を勉強する
「在外研究」によれば、倉石は1928年3月28日から1929年2月28日までの11カ月間の間、満洲旗人の奚待園から『紅楼夢』などの講義を受けていたといわれています。
倉石は、この『紅楼夢』を読んだ時期を回想し、次のように述べています。
「『紅楼夢』を読み始めたときに、ちょうど吉川君が加わった。ゆっくりと読む速度を上げ、私たちは午前中の時間のほとんどを『紅楼夢』の講読の時間に充てていた。北京の夏は足早と訪れ、我々はドアを閉め切り、蒸し風呂のような暑さのなかで、『紅楼夢』の一二〇回の話しを講読したのだった。一二〇回の話しを全部読み終えた時には、皆は我々二人を『紅楼夢』マニアとからかった。しかし、銭韜孫先生は、『「紅楼夢」を通して中国語を学習したのは絶妙な方法だ』、と我々を褒めてくれた。」(出典:「延英舍のこと」、栄新江・朱玉麒輯注『倉石武四郎中国留学記』、中華書局、2012年、211頁。)
倉石は実は北京に留学する前にすでに一度『紅楼夢』を読んでいたこともあり、北京で中国人の個人教師と「半読半講」する過程でその内容を再度、理解する機会を得たのです。『紅楼夢』の舞台が北京であったことを考えれば、倉石は『紅楼夢』を読みながら北京の風土と人情を学び、実際に体験することができたといえます。
2.翻訳の練習で中国語作文を勉強する
「在外研究」によれば、倉石は1929年7月10日から1930年5月27日まで北京大学教授の兪平伯から翻訳について学んでいました。
その具体的な学習方法は、夏目漱石の『坊ちゃん』などの作品を倉石が翻訳し、兪平伯が修正するというものでした。日記の記述をみれば兪平伯との勉強にほぼ週一日が充てられ、倉石の遺稿の中に当時の兪平伯が墨をいれて訂正した手書きの原稿が残っているほどです。ここで兪平伯と倉石が勉強したのは、日本の文学作品を漢文翻訳するのではなく、現代中国語の口語体を用いて翻訳するという方法でした。このような翻訳の経験は、後に倉石の漢籍翻訳の基礎になっていることがわかります。
3.清代の法律制度
京都学派と言うのは、一般的に歴史や政治制度などの研究を重視する傾向がありますが、倉石の恩師である狩野直喜も『清朝の制度と文學』という本を書いたことがあります。その影響で、倉石は清代の法律制度に対して興味があって、1929年11月5日から1930年4月29日までの間、楊鐘羲と『大清会典及事例』について学習しました。楊鐘羲はかつて江寧府の知府と翰林の「南書房行走」という差使を務めた人物ですから、清代の法律制度に詳しく、法律を学ぶためには絶好の人選であったと言えます。倉石は毎週火曜日の第二時間目の科目として、楊鐘羲の主宰していた「雪橋講舎」に参加し、法律の勉強を続けました。
4.北京の大学での聴講
倉石は、北京で個人教師より中国語を教わる傍ら、聴講生の身分で北京の幾つかの大学の講義を受けていました。当時、北京の一部の大学では、正式な聴講生制度を設けており、北京大学でも「各学部において欠員がでた場合、聴講生を受けることができる」という規定のもと、一定の費用を徴収し、外部の人々の聴講を認めていました。倉石は学費の支払いに困っていたわけではなかったので、北京大学と中国大学(私立)に聴講生の登録をしていました。以下の科目から倉石がいかに熱心に勉強に取り組んでいたかをうかがうことができます。

Photo

Photo_2
北京大学と中国大学での勉強は順調だったのですが、北京師範大学では聴講制度がなかったので、授業を聴講することができませんでした。倉石は当時、北京師範大学の銭玄同による音韻学の講義「国音沿革」を聴講することを希望していましたが、北京師範大学には聴講制度がなかったので、倉石は銭玄同に連絡し、許可を取って、1929年の秋から銭玄同の講義「国音沿革」を密かに聴講することにしました。この北京師範大学での聴講は倉石の中国語音韻研究に大いに役立ったようです。倉石は次のように回想しています。
「そのとき習いました銭先生の講義はたいへん役に立ちました。これは今から白状するようですけれど、京都大学で講義をはじめました時に、だいぶ種本として使わせていただきました。」(出典:倉石武四郎『中国語五十年』、前掲、34頁。)
倉石は、この北京師範大学での聴講を通して、新文化運動前後の中国語改革の成果を把握することができ、これは後の日本における中国語教育改革を実施するための大きな経験になっていたことがわかります。
5.なぜこういう贅沢な学習ができたのか?
やはり十分な資金をもっていた御蔭です。
倉石が受領していた文部省の在外研究員の奨学金は毎月360円です。その経済状況については、同じ時期に北京に滞在していた吉川幸次郎の例が参考になります。当時、吉川の奨学金は200円で、「(当時)金二百円が銀五百元ですね。五百元というと、いまの金なら月五十万円くらいとちがうかしら。五百元のなかで(中略)生活費は百元かからないです。さっきの比率で言えば十万円はかからない。あとの四百元、四十万円は全部本が買えた」という。(出典:吉川幸次郎『吉川幸次郎全集』第二二巻、筑摩書房、1985年、371-372頁。)
倉石の場合は経済条件が吉川よりもさらに恵まれていたので、個人教師を雇い、大学の授業を聴講しながら、中国の書籍を購入するという意欲的で、しかも贅沢な勉学生活を送ることができたのです。
倉石は書籍の購入のほか、写本という方法で大量の貴重書を蒐集することができました。当時、北京の古書蒐集家はみな宋代の版本が貴重であると考え、清代の版本には注目せず、それ自体の値段も廉価なものでした。しかし、倉石は清代の版本に注目し、大量の書籍を購入しました。吉川が帰国するときに送った書籍の小包は三〇〇個ぐらいですが、倉石が購入した書籍も恐らくはそれ以上のものであったと考えられます。倉石は退官後、その蔵書を東京大学に寄付して、現在は東京大学東洋文化研究所の倉石文庫になっています。
6.学習以外の活動・委託を受けた漢籍の購入
東方文化学院京都研究所の所長で狩野直喜という人物がいましたが、彼は倉石に中国の古典籍を集める仕事を依頼しました。倉石は書籍の購入方法について二つの方策を進言しています。一つは中国の著名な蔵書家が集めた書籍を一括で購入する方法と、もう一つは北京の古本を扱う業者に依頼し、必要な図書を購入するという方法でした。倉石はこれら二つの案を併用することが最も適当であるとアドバイスし、実際に日本側は倉石が進言した方法で必要な書籍を購入しています。
「在外研究」によれば、倉石は、1929年7月26日から同年8月12日の間、東方文化学院の依頼を受けて、江蘇省の出身の著名な蔵書家である陶渉園の「渉園蔵書」の調査と購入の仕事に参加していました。陶氏は実業と金融関連の仕事で巨万の富を築き、中国の漢籍収集に熱中し、30年間で30万冊の貴重書コレクションを有していました。ところが、内乱によって家産が傾き、9人の子供の学費を支払うことができず、貴重な蔵書を売り出し始めたのです。
倉石が天津に行って、陶渉園の「渉園蔵書」の古典籍を整理し、購入した数は合計24614冊で、すべて日本に運ばれたのです。これは京都大学人文科学研究所の主要な蔵書にもなりました。
7.学習以外の活動・中国各地の遊歴
留学生がその国の各地を旅行することは特に珍しいことではありません。しかし、倉石が遊歴した場所は他の留学生と一風かわっていました。「在外研究」によれば、倉石は北京での留学生活期間中に、一人で山西省の田舎にある曲沃から翼城などの小さな村落を訪れています。この遊歴は、実は『春秋左氏伝』に登場する「晋の曲沃の伯(2代目)で名を鱓という荘伯が、主君の孝侯を翼で弑したが、晋人に攻められたため、曲沃に帰り、鄭と邢と共に宗家の翼を討った。さらに周桓王が尹氏・武氏に命じてこれを援助したので、晋の鄂侯は随に出奔した」というくだりを追跡することが目的でした。倉石はその時の感動を「一高の漢文の教室で、この曲沃という地名がでた。(中略)そのあこがれの曲沃に、おりたったときは、まるで、ゆめをみているように、うっとりした」と回想しています。(出典:倉石武四郎『とろ火』、くろしお出版社、1960年、24頁。)
近代以来の日本人の中国遊歴は主に中国旧慣調査、経済実態調査、軍事的調査などさまざまな目的から行われたが、倉石の場合は『春秋左氏伝』に登場する歴史の舞台を訪れており、まさに一日本人学者の学問的な好奇心からの遊歴と言えよう。倉石は生涯日中友好のために尽力し、晩年に日中学院を創立した時には校訓を「中国語を学んで日中友好の架け橋となろう」定めたほどであった。倉石が山西省遊歴で記しているように、中国を文化の故郷とみる一知識人の郷愁の念があったのかもしれません。
8.学習以外の活動・北京の知識人との交流
1920年から1930年の間は、倉石や吉川などの留学生にとっては学問に専念できる平和な時代でした。この時期を挟んで済南事変や満州事変などが発生し、中国に対する日本の攻勢は日々強まっていましたが、学問を目的に留学する倉石らに大きな影響を与えることはありませんでした。確かに、当時多くの中国の知識人が反日的な感情をもっていたことは事実ですが、中国について勉強することを願っていた日本人留学生を特別に待遇し、心温まる交流が実現したのも事実です。
倉石が訪問した中国人学者の中には中国の著名人が多く含まれています。1929年5月31日の魯迅訪問については、魯迅もその日の日記に「三十一日晴。午後金九経偕冢本善隆、水野清一、倉石武四郎来観造象拓本」(三一日、晴れ。午後に金九経が冢本善隆、水野清一、倉石武四郎を連れて、造象の拓本を見に来た)と記しています。(出典:『魯迅全集』第一六巻、人民文学出版社、2005年、136頁。)また、魯迅はこれに留まらず彼ら四人にそれぞれ拓本を一部ずつ送り、当時の中国の知識人がなぜ拓本などを熱心に収蔵するのか説明しています。中華民国初期において、政府の知識人に対する弾圧は厳しく、政府の政策を批判したことを理由に罪に問われる人は少なくありませんでした。魯迅はもともと拓本や絵画などが好きだったので、拓本と絵画を集めることを唯一の趣味とし、自分の保身を図るため、他に方法がなかったと言われております。(出典:倉石武四郎『中国語五十年』、前掲、38頁。)もし、魯迅との交流が無ければ、倉石は当時魯迅(中国の知識人)が拓本を収集する理由を理解できなかったでしょう。
魯迅の他にも倉石は当時の北京に滞在していた多くの知識人を訪れています。「日記」からうかがえるだけでも、馬幼漁(裕藻)、朱逖先(希祖)、周啓明、許之衡(守白)、倫哲如(明)、趙斐云(万里)、呉検齋(承仕)、孫蜀丞(人和)、高閬仙、楊遇夫(樹達)、范文瀾、銭玄同、沈兼士、黄晦聞、楊子勤(鐘羲 雪橋)、王孟嘉、于闊田、曽隠畊、徐森玉などの名前が見え、その他にも、北京から上海などを旅行した際には洗玉清、馬隅卿、尹奭公、陳垣、陳寅恪、胡適、董大理、章太炎、黄季剛などの学者とも面会しています。
例を挙げると、歴史学者の陳寅恪との面会を記した五月二七日の「日記」には、「陳寅恪は論理が整然で、さすが王国維に次ぐと言われる所以が分かる」と書いています。他方で、倉石の訪問は中国人学者の間にも大きな印象を残したようです。倉石は、1929年7月6日に楊樹達を訪問しましたが、楊樹達はその『回顧録』のなかで「此君頭腦明晰、又極好学、可畏也」(倉石君は頭脳明晰で、良く勉強していた。後生畏る可しである)と振り返っています。(出典:楊樹達『積微翁回憶錄』、北京大学出版社、2007年、29页。)
倉石の「日記」の六月一四日の記述によれば、倉石が北京を離れ日本に帰国するときに、上述した多くの中国人学者が見送りにきています。また、尹奭公、陳垣、趙斐云は倉石に離別の記念として書籍を送り、中国について勉学することに熱心な日本人の留学生に支持と尊敬の念を表しています。


  以上は、二年間にわたる倉石の北京における留学生活の一端を明らかにしましたが、倉石が北京で交流を重ねた中国人や同時代の北京滞在の日本人に与えた最も大きな印象は、倉石の学問に対する真摯な態度でした。倉石が日本に帰国した後、孫人和と吉川幸次郎は「倉石さんは実によく勉強される。夜でも本を読む」と回想し、終始学問に邁進した倉石を褒め称えています。(出典:吉川幸次郎『吉川幸次郎全集』、第一七巻、筑摩書房、1969年、477頁。)
倉石は個人教師や大学での聴講を通じて、中国の音韻学や古典について学び、さらに中国の知識人との幅広い交流を通して、日中の政治的な確執や動乱の時代を超えた友情を結ぶことができたのです。この友情こそが、戦後日本と中国の国家的対決という構図を打ち崩していく(日中冷戦の雪溶けを推し進める)原動力になったとも評価できます。1954年の春、倉石は中国側の要請を受けて、日本側代表の13名の一人として新中国成立五周年記念式典に参加し、率先して日中の学術交流における橋渡しの役割を果たしました。(王曉秋・大庭脩主編『中日文化交流史大系歷史卷』、浙江人民出版社、1996年、360頁。)また、倉石はこの交流を通して、新中国の新しい言語政策(ピンイン)、文字改革(簡体字の導入)を目の当たりにし、日本の中国語教育もこれらの方向に従うべきだと主張するようになりました。特に中国語のピンイン導入は従来の日本側の注音符号の不統一問題を解決する一つの方法でもあり、日本の中国語教育と研究の発展に大きく貢献しました。
最後に、近代日本人の中国留学史の研究を通じて、どのような役割と意味があるのかについて、お話したいと存じます。
一般論に考えますと、近代以降日中両国の関係が悪化する中、日本人が中国に留学して勉強するのは決して簡単なことではありませんでした。しかし、倉石のように中国で充実した留学生活を送り、大きな収穫を得た留学生は多分に存在しました。ですので、国家関係と日本人の中国留学は相反する現象が見られます。それはいったいなぜでしょう?
それを解明する手がかりとして、1882年に大蔵省によって中国に派遣された井上陳政のぶまさの例を挙げたいと思います。
彼は当時清國で一流な学者である兪樾に師事しましたが、兪樾は井上を弟子にしたことについて、次のように詩を残しております。
「門生註藉逐年多,已愧無功效切磋。誰料竟成蕭穎士,執經請業有新羅。」
そして、詩の最後に次のように述べています。
「甲申歲,日本東京大藏省官費學生井上陳政字子德,奉其國命,遊學中華,願受業於余門下,辭之不可,遂留之。其人頗好學,能為古文。」(出典:兪樾(曲園)『曲園自述詩』、博文館、1890年、26—27頁。)
蕭穎士は唐代研究の著名な学者で、弟子も多く、その中にはかの有名な新羅や日本からの留学生もいたと言われています。ですから、兪樾は自分も蕭氏と同じように日本人の弟子を受け入れたと書いています。それについて、より敷衍して申しますと、清朝の学者は日本人留学生に対して、千年前の唐代に、遣唐使に随行した日本人留学生の長安での留学を思い出したのです。彼らは千年前の留学生に関する記憶を思い起こし、近代日中両国の知識人が理解する「共同空間」が創造されたと言えるでしょう。こういう「共同空間」の中で、知識人は両国の現実的な政治関係やそれに引きずられた感情に影響されずに、互いに理解しあって、心温まる交流を実現できたのです。当時日中両国の関係を砂漠に例えるならば、この「共同空間」はまさに乾燥を潤す貴重なオアシスと言っても過言ではありません。
確かに千年前の古代日本人の中国留学の記憶は時の流れとともに忘れ去られたかもしれません。しかし、現在日中両国の間で、今日私がお話したような近代日本人の中国留学史に存在した「共同空間」を新たに創造することができれば、両国民にとって幸いな事だと存じます。
ご清聴ありがとうございました。

2016年2月 7日 (日)

遼寧師範大学の譚晧先生から「感想文」が寄稿されました

 くらし学際研究所は2015年11月大連市で加藤茂氏を講師として『人命軽視の戦争は、二度としてはならない』と題して講演会を開催しました。加藤氏は1939年両親とともに旧満州に渡り、そこで敗戦を迎えられました。ソ連軍の侵攻の際には生死をさまよう体験をされました。その後も長く満州に留め置かれ、1953年最後の引き揚げ船で日本への帰国を果たされました。加藤さんはその体験を『嗚呼 命』という本にまとめられました。
  講演会では、本書の内容についてお話しいただきました。本講演会開催につき中国側で多大のご協力を賜ったのが、東北財経大学の張抗私、方愛郷の両先生および遼寧師範大学の譚晧先生そして大連在住の武井克真氏でした。そして、このたび譚先生が『嗚呼 命』の感想文を寄せてくださいました。著者の訴えたい人命の重要性をきちんと把握し、人道的な立場からの戦争批判の感想文になっています。くらし学際研究所としては譚先生との長いご厚誼を願っています。(くらし学際研究所・事務局)

加藤茂著『嗚呼 命』を読んで
          譚晧(遼寧師範大学)
 私は2014年7月 に北京大学から歴史学博士号を獲得し、その後、故郷の近くの大連に戻り、発信力がいささか弱い地方から中日交流史や 関係史に関する研究で、中日関係の改善にご貢献できればいいなと考えました。  そして、2015年8月 に「くらし学際研究所」の垂水英司さんから加藤茂さんのご著作『嗚呼 命』をいただきまして、すぐ読み始めたのです。
  ご著作の読後感は、まるでジプリのアニメ『ホタルの墓』を見た感じです。具体的に申しますと、ご著作を読む間、ずっと気になったのは、「命の重さ」です。加藤茂さんの著書は1945年8月10日から筆を起こされていますが、周知の通り丁度その直前の8月6日と9日に日本本土の広島と長崎に原爆が投下されて多数の死傷者をだしました。日本の敗戦後の1年間で満州で亡くなった人の数はそれにほぼ匹敵し、十数万人に及びます。
  しかし、加藤茂さんのおかれた悲惨な境遇からしますと、死は個人にとって、数や場所など関係ありません。要するに、命の重さは皆同じで、命には差別がないのです。ある人達のために人の命を奪ったり、犠牲にさせたりすることは、何時でも、 どこでも、決してあってはならないのです。人類は必ず民族や国家の狭い視野を乗り越えて、人間社会のために考えなければならないと考えます。
  時の流れが早いですが、戦争から今年になってもう70年が経ちまし た。人間は時間がたてば物を忘れる生物です。戦後生まれの人たちはもう戦争の怖さなど分からなくなりました。しかし、戦争は一般の災難よりずっと多くの人を巻き込んで、命を奪い、その被害者の数や被害の程度も比べものにならないくらい大きいものです。特に、今の国際状況には宗教や歴史問題、更に目先の利益のため、戦争 が起こる恐れが極めて高いです。その意味で、加藤茂さんのご体験は日本人だけではなく、世界中の人々にも意味深いと言っても過言ではないのです。

(読後感は以上です。私は西澤先生と出会って、誠に良かったと存じます。後学でありながら、もっともっと先生に教わりたい です。これからもぜひもっと深く交流できるようお願いします。では、先生とのご再会を楽しみにしておりながら、ここで失礼致します。
 取り急ぎご返事と読後感のみ申し上げます
        譚皓  拝
             大連にて)

2015年9月24日 (木)

紀要9「老・壮・青が相まみえた日中交流 ―くらし学際研究所 大連スタディツアー 2015年8月24日‐8月27日」を発行しました

 一昨年のくらし学際研究所・台湾スタディツアーに引き続き、今年8月大連スタディツアーを実施しました。台湾は50年間にわたり日本が植民地として統治しましたが、大連も日本が支配下に置いた時期は40年に及びます。また、最近30年ほどは多くの日本企業が大連に進出するなど、日本と大連の関係は浅からぬものがあります。 かねて西澤代表世話人が東北財経大学張抗私教授らと交流があり、これを機縁とし今年に入り企画を練り始めました。(企画担当・チーム近隣アジアを知る)3月に募集を始め、参加希望者によって3回の準備会を開催、大連に関する予備知識を学習してきました。

150830  8月24日‐8月27日の4日間、大連・旅順視察から大連民族大学や東北財経大学との意見交換・交流など様々な活動を通じて、大連スタディツアーは非常に有意義なツアーとなりました。大学の先生方をはじめ、ガイドをしていただいた日本語学科の学生さん達との4日間は、まさに「老・壮・青が相まみえた日中交流」でした。今後も継続した交流が期待されるところです。 今回のツアーの準備や実施に際しお世話になった方々に深く感謝申し上げます。
 詳しいツアーの行程や参加者の感想をまとめた報告書(紀要9・PDF形式)を作成しました。ご希望の方は、下のコメント欄からお申し込みください。添付ファイルでお送りします。 9

2015年9月23日 (水)

これまで発行した「紀要」のご紹介

くらし学際研究所のブログのカテゴリーに「紀要」を新設しました。これまで発行している「紀要1」~「紀要8」をご紹介します。
 今後、紀要を発行するごとに、このカテゴリーに分類してお知らせします。
 これまで発行した紀要の取り扱いは次の通りです。(郵送の場合、送料をご負担ください)

紀要1「現在の不安 それを超えて」 2010年4月発行
  著者 菊本義治 中谷武 合田寛 山家悠紀夫 前哲夫 川口稔 中村彰雄 大塚秀之 浅野弥三一 垂水英司 落合淳宏 風呂本武敏 溝口勉 加藤淳夫 畦布和隆
  定価1000円 若干数在庫あり(ブログコメントからお申し込みください)

紀要2「現在の不安 それを超えて 2 東日本大震災特集」2012年3月発行
  著者 西田雅年 寺井美香 尾藤隆 落合淳宏 伊藤国彦 菊本義治 大塚秀之 道上哲也 越山健治 奥村弘 垂水英司 浅野弥三一 小森星児
  定価 500円 若干数在庫あり(ブログコメントからお申し込みください)

紀要3「ポストフクシマを生きる」 2012年8月発行
  著者 落合淳宏
  ご注文に応じて、PDFファイルでお送りします

紀要4「B級ご当地グルメ隆盛から見る地域文化と経済」 2013年5月発行
  著者 山崎 整
  ご注文に応じて、PDFファイルでお送りします

紀要5「アベノミクスを考える」 2013年6月発行
  著者 中谷 武
   ご注文に応じて、PDFファイルでお送りします

紀要6「仕事のストレス、メンタルヘルスと雇用管理 ●労働経済学からのアプローチ」 2013年10月発行
  著者 山岡順太郎 
   ご注文に応じて、PDFファイルでお送りします

紀要7「くらし学際研究所5年の歩み」 2014年3月発行
  編集 くらし学際研究所
   定価500円 若干在庫あり(ブログコメントからお申し込みください)

紀要8「日本経済とギャンブル ~カジノで地域振興を図るな~」
  著者 西澤信善
   定価500円(ブログコメントからお申し込みください)
 

2015年9月 2日 (水)

紀要8「日本経済とギャンブル ~カジノで地域振興を図るな~」を発行しました

 

くらし学際研究所代表世話人で神戸大学名誉教授西澤信善氏の表記の論文を、紀要8として発行しました。

Forblog_2
  目次をご紹介します。  

はじめに
序論 カジノ誘致は政治の貧困
第1章 ギャンブルのポリティカル・エコノミー  
第2章 現実化するカジノ解禁  
第3章 ギャンブル依存症は深刻な社会問題  
第4章 法が禁じる賭博(ギャンブル)  
第5章 地域活性化とギャンブル  
むすび  

ご購読をご希望の方は、このブログの「コメント」か、電話(090-4566-8745)で、お名前と郵送先、冊数をお知らせ下さい。A4版66ページで、定価は1冊500円(別に郵送料が必要)です。  また、月例会・公開講演会の会場でも販売しています。

 (研究所員の方は1冊無料、近日中に郵送にてお届けします。) 

2013年11月18日 (月)

紀要6「仕事のストレス、メンタルヘルスと雇用管理・労働経済学からのアプローチ」を発行しました

神戸大学大学院経済研究科研究員山岡順太郎氏の表記の論文を、紀要6として発行しました。

Photo_2

 ご購読をご希望の方は、このブログの「コメント」か、電話(090-4566-8745)、FAX(078-856-6821)で、お名前と郵送先、冊数をお知らせ下さい。カラーコピー版で、定価は1冊200円です。
 また、月例会・公開講演会の会場でも販売しています。

 (研究所員の方は無料、2冊を近日中にクロネコのメール便でお届けします。)