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エッセイ

2014年1月20日 (月)

寒かった台湾、熱かった人々、「ケンペーヤ!」-台湾スタディーツアー報告(3)-

 12 月22 日 南豊村 日月潭 埔里
 次の日も9時に宿舎を出発、埔里周辺を案内してもらいました。まず向かったのは原住民族集落の南豊村です。車で30分ほど走り、渓流沿いの山間の道をさかのぼった所にその集落はありました。台湾原住民族は漢族が大陸から流入する以前から台湾全土に居住していた民族で、いまも山間地には広くかれらの集落が散在しています。現在14民族が法律で認定されていますが、この南豊村はその一つ賽徳克(サイダック)族の1集落です。
  まず、出迎えてくださったのは、かつて国会議員を務めた瓦歴斯(ワリス)さん。政界引退後、故郷で両親の農場を引き継いだ瓦歴斯さんは、苦しい集落産業の現実に直面します。以来エコロジー循環農法を実践し、消費者と結ぶネットワークを構築するなど、活路を見出そうと様々な取組みを進めているのです。
  この後、村のコミュニティ広場の集会所で村の概要を聞いた後、賽徳克族の伝統家屋を見学しました。これは村の祭事を催し、伝統文化や歴史を理解、継承するため今年完成したものです。09_2 石板、原木、樹皮、藤蔓などを使った伝統工法の家屋の中に入り、私たちも当時の生活の様子を想像しました。そして帰り際家屋の前で、にわか覚えの賽徳克語「ケンペーヤ!(頑張ろう)」の合図で集合写真をとりました。
 お昼は食堂で、原住民料理をふるまってもらいました。イノシシやイモ、そして蒸しご飯など珍しいものばかり、目も舌も大満足でした。この後もう1か所、村の天主堂によりました。原住民族の生活にはキリスト教が深く浸透しています。小さな村と思えない立派な教会があります。今日はクリスマスを控えた日曜日、集落の3地区の村民が集まり、にぎやかに対抗ゲームに興じていました。
  もう2時も過ぎ、急いで私たちは一路よく知られた観光地日月潭に向かいます。車で40分、美しい湖面が現れました。しかし、車窓から眺めるだけで、頭社という集落に向かいます。ここで大地がゆらゆら揺れる頭社泥炭土活盆地(数千年に渡る水草の生長と堆積の相互作用により形成され泥炭土湿地)やコーヒー農家などを訪ねました。

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 その後は、また一路埔里へ。夕方、埔里のチョコレート会社「18 度C 巧克力工房」の茆社長さんに会うためです。もう暗くなった会社前につくと、チョコレートを買う多くの人たちでまだ賑わっています。会社の中のゲストルームに案内され、茆さんと懇談しました。
 茆さんは、欧州や日本でお菓子やチョコレート作りを学んだあと、埔里で小さなパン屋をはじめます。2005 年にチョコレート販売を始めましたが、研究熱心なチョコレート作りはたちまち評判を呼び、広く台湾で知られるようになったのです。懇談の場に供されたチョコレートやお菓子、さらにはピザなど、どれも上質の味わいでした。
 一方、茆さんは社会活動の支援にも幅広く取り組んでいます。大埔里観光協会会長として東北を訪れたことがある茆さんから、さらに被災地との交流機会を増やしたいとの申し出がありました。中谷団長から、茆さん及び今回の私たちの訪問を受け入れて手配してくださった新故郷の廖さんに、感謝の意と今後も交流を続けたい希望を伝えました。
 この2 日間、台湾は異例の寒波で、私たちにとってもかなり寒く感じました。しかし、多くの台湾の人たちとの熱い交流は、忘れられない思い出となりました。非常感謝!

 12 月23 日、24 日 台北
 さて、23 日と24 日は台北での観光視察です。この部分は、訪れたところを簡単に列挙するにとどめます。
① 故宮博物館 一日ゆっくり時間をかけて鑑賞したメンバーもいました。それにしても、大陸からの観光客の多さに驚きました。
② 二二八記念公園 総統府など 戦後の台湾社会に深く影を落とした228 事件(1947 年)を記念する公園です。
③ 龍山寺から西門まで散策 初期台北市が形成される原点と言えるような地域を歩きました。
④ 四四南村と101 大楼周辺 社会主義革命前後大陸から流入してきた人の居住地(眷村)の一つ四四南村。その隣には高さ504 mの超高層ビル101 などがある新都心です。

 最後に、ワークショップを含めて通訳をこなしてくれた李さん、ご苦労様でした。謝謝、李小姐!(おわり)
           くらし学際・台湾スタディーツアー団(文責・垂水)

2014年1月19日 (日)

寒かった台湾、熱かった人々、「ケンペーヤ!」-台湾スタディーツアー報告(2.)-

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 昼食を終えるとワークショップが開かれる曁南大学へ急ぎました。曁南大学は1995 年開校した総合大学で、現在学生数約6,000 人、桃米村の北側に隣接した丘陵部に広大なキャンパスが広がっています。会場へ着くと早速出来上がったワークショップ論文集が手渡され、待つ間もなく開会です。江大樹暨南大学公共行政・政策学科教授、中谷武団長のあいさつに引き続き、プログラムに沿ってテーマ発表、コメンテーターの発言と議論が続きました。国際会議は通訳を挟んで事情の異なる発表でなかなか議論がかみ合わないのですが、今回はかなりコンパクトで膝突き合せた雰囲気の中かみ合った議論ができました。おかげで時間オーバーしたものの、綜合座談は超簡単に圧縮ということで収まりました。

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 終了後、ペーパードーム(紙教堂)園区へ向かいます。ペーパードームは、神戸鷹取にあったカトリック教会が焼け落ちた後、建築家坂茂氏が提案して建てた仮設建築物です。教会だけでなく、その場に集結したボランティアやNPO の活動拠点になった記念的建物でした。それを被災地の市民交流の証として台湾の被災地で再生させたのです。今では生態村の見学センター、地域の交流拠点として賑わい、日本との懸け橋にもなっています。
 もうすっかり暗くなった園区を一回りした頃、レストラン棟で交流会が始まります。曁南大学の江教授や廖さんや顔さんを初めとする新故郷のスタッフが勢ぞろいです。会場正面では、埔里Butterfly 交響楽団から駆けつけた4 名のメンバーが演奏を披露してくれています。921 震災後高まってきた学生や生徒たちの管弦楽への関心が契機となって、新故郷をはじめ様々な人たちの支援の下、最近結成された地域の交響楽団なのです。

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 次第に宴も佳境に入ったころ、後ろの方から仮装した一団が踊りや歌を歌いながら入ってきてさらに場を盛り上げます。よく見ると新故郷の若いスタッフたちです。奥の方からは「イッキ、イッキ!」とはやしたてる声が聞こえてきます。今日はたまたま新故郷の執行長顔さんの誕生日なのです。普段は飲まないが根は酒豪の顔さんに、皆が葡萄酒を注いでいたのです。こうして、楽しく宴は終わりました。(つづく)

2014年1月18日 (土)

寒かった台湾、熱かった人々、「ケンペーヤ!」-台湾スタディーツアー報告(1)-

 

くらし学際研究所5周年記念行事として海外ツアーの企画が持ち上がり、所員の一人が被災地の交流を続けてきた台湾へ行くことになりました。神戸と台湾の被災地交流の拠点である台湾南投県埔里鎮桃米村にある紙教堂園区(ペーパードーム)を、新故郷文教基金会(NGO、以下「新故郷」といいます))の受入のもとに訪れ、さらに隣接する曁南国際大学の研究者などと共催でワークショップ「台日住みやすいまちづくり実践経験」を開催するという企画を立てました。これを軸に参加者を募った結果、畦布和隆さん、落合淳宏さん、垂水英司さん(企画)、中谷武さん(団長)、西澤信善さん、森岡照美さん
(会計)の6 人でツアー団を結成しました。なお、現地通訳として李宇寶さん(台北在住)にほぼ全行程同行してもらいました。

 12 月20 日 出発

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 さて、12 月20 日いよいよ出発です。13 時10 分関空発の便で15 時30 分台北桃園到着、すぐに高速鉄道で台中へ、そしてさらにバスで埔里へ向かいます。この日は台湾も華の金曜日、予定から1 時間ほど遅れ7 時30 分頃に埔里へ到着、新故郷や民宿の人たちの迎えの車で桃米村へ。途中レストラン(草本生活家)で夕食、宿舎の民宿「景上景」についたのは9 時前でした。村でも高いところに位置するこの民宿は、とても眺めのいい場所でした。

 12 月21 日 桃米村 ワークショップ 交流会
 明くる日は9 時に宿舎を出発し、桃米村を見学します。若い者が都会へ流出し高齢化が進む典型的な小さな農山村だった桃米村は、地震(921 地震 1999 年)で大きな被害を受けました。何もない村で復興の道が見いだせ
なかったとき支援に入ったのが新故郷でした。村民たちと議論し、「自然があるではないか、これを軸に復興しよう」という提案をしました。最初は多くの村民は半信半疑でしたが、自分たちで河川を清掃し、生態公園を作るうち確信が湧いてきたのです。エコ生態村の復興モデルとして台湾ではよく知られています。

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 まず、訪れたのは草湳湿地で、初期に完成した生態公園です。震災後荒れ地だったところを村民参加で生態地に作り変えたのです。案内してくれるのは、民宿・宏観山居の主人羅さんで、トンボやカエルの解説ライセンスを持っています。一定の講習を受けて試験にパスすると解説員になれる村独自の認証制度ですが、これも地震後に生まれたものです。
 公園に入るとすぐ広い草地があり、ここは4 月頃多くの蛍が飛び交うそうです。さらに進むと湿地が広がり様々な植物が群生する中に、村民手作りの木製、竹製の橋や休憩所などが点在しています。

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 公園を出て、村内の古い民宿紅瓦厝(三合院形式の伝統建築)を訪ねた後、昼食をとる蔵機閣安居楽活村へと向かいます。ここは桃米村からさらに奥まった隣村(成功里)にある自然環境・生態に富んだ民宿、レストラン
で、4,500 坪ほどの敷地を利用し自家農場、天然酵母の窯などを備え、ベ
ジタリアン料理を供するというユニークな場所です。広い園内の案内を受
けた後、珍しい精進料理に舌鼓を打ちました。(つづく)

2013年5月21日 (火)

エッセイ 連載「原発と‥‥」

第2回 原発とアベノミクス
                        くらし学際研究所 落合淳宏 
 今年1月、安倍首相は就任後初の外遊先ベトナムで、福島事故後止まっていた原発輸出の話を復活させ、21年までに2基の原発を建設することを確認した。ベトナム側の条件は明らかにされていないが、その一つは「使用済み核燃料を含む放射性廃棄物処理」を含むと報道された。
 つづいてこの5月、安倍首相は、大経済使節団を引き連れて中東を訪問した。アベノミクスの「第3の矢」=成長戦略の2回目のセールス行脚である。目的は「原発輸出」。16基の建設計画を持つサウジアラビアとは原発輸出の前提になる原子力協定締結の交渉を始めた。12基を計画するアラブ首長国連邦と原子力協定を調印。トルコには三菱重工業と仏アレバ社の共同で、原発4基輸出することが決まった。
 インドは20年までに原発18基の建設を計画している。安倍首相は、5月末に来日するインドのシン首相との首脳会談で原子力協定に調印し、核爆弾保有国である同国に原発を輸出する条件を整える。13520_3
 今、世界ではおよそ400基の原発があり、さらに400基の建設計画があるという。1基当たり4~5千億円と言われる巨大な市場に企業が群がり、世界中でプルトニウムを生産し、放射性廃棄物を作り出す。
 日本政府は、他国と競争して世界に原発を売り歩く立場にあるのか。

 「100年は戻れない」と言われる高汚染地域に住んでいた2万5千人を含め、今も避難している15万人の多くが、故郷を奪われた。
 福島の原発事故では、重要な配管類や非常用機器が地震で破損したのかどうか未解明である。3号機では、消防車からの注水の半分以上がバイパスを通して外部に流れ、原子炉の冷却に役立っていなかった…それが大規模なメルトダウンにつながった可能性が強い…ことが、やっと最近になってわかった程度だ。日本は、原子炉3基がメルトダウンするという未曾有の事故を引き起こしただけで、未だ、そこから「安全な原発」のための「経験」を引き出せたわけではない。わかったのは、「事故は起きる」「起きればその被害は時空を越えた規模になる」「人間の生存を危機に陥れる」と言うことだ。人間の歴史から見れば、ほんの一時期のエネルギーを確保するだけのために、そんな代償を払うことはできない。
 
 安倍首相は、福島の経験を生かした世界一安全な日本の原子炉、と言って売り込んだが、たとえ、たとえ「世界一安全」でも事故は起きる。起きたらどうなるか、日本は今実体験しているのだ。

 その現実を世界に知らせるのが、日本の役目ではないのか。「あとは野となれ山となれ」の政治はもう終わりにしなければならない。

2013年4月 7日 (日)

エッセイ 連載 「原発と……」

第1回 原発とメディア
                                                              くらし学際研究所 落合淳宏
 下の写真を見て欲しい。イギリスのテレビSKY NEWS が報じた福島第1原発3号機の爆発の映像だ。数百メートル(手前に白く見える2本の主排気筒の高さは120メートル)立ち昇るキノコ雲状の黒煙の一番上あたりから、大きな構造物がバラバラと落下している。この場面の直前には、閃光が走る瞬間も写っていた。テロップには「NHK  TV 」とあった。
 しかし、日本でこの「衝撃の場面」の映像を見た人はそんなに多くはない。というのは、日本ではこの時点でこの映像は流されなかったからだ。NHKは、「3号機が水素爆発し白煙が立ち昇ってる」映像に差し替えて放送した。

 海外でこの映像が流されたあと、アメリカ、イギリス、オーストラリア、韓国の政府は、「80キロ圏内の避難勧告」を出した。当然とも言える対応だった。ドイツは、「脱原発」を決めた。

 いっぽう「ご当地」日本のメディアは、枝野幸男官房長官(当時)の「直ちに人体に影響はない」を、オーム返しに繰り返していた。こうしてNHKは原発の「魔性」を隠した。それでも国民の7割は、「安全神話」のデタラメを見抜き、脱原発を求めている。
その一方で、政府や財界は、原発再稼働、原発建設再開、原発輸出にひた走っているのだ。なぜか?
(表題の「…」部分を「アベノミクス」「アメリカ」「倫理」として月1回を目途に4回連載します)

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2013年3月 6日 (水)

台湾の「さよなら原発」運動

                   くらし学際研究所 垂水英司

Photo_2 私は、あまり熱心でないが、一応facebookに登録しています。いわゆる「友達」も160人くらいで、その3分の1は台湾の人達です。このところ台湾の「友達」から盛んに「脱原発」の話題や呼びかけが増え、この3月9日に挙行する「2013脱原発大行進」の誘いがたびたび届きます。そこで、何かの参考になればと、このデモンストレーションの呼びかけ文を訳してみました。

 台湾には、現在原子力発電所が3か所(核一、核二、核三)あり、さらに1か所建設中(核四)です
 以下は、「2013脱原発大行進」呼び掛け文です。(垂水英司・訳)

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  福島の原発災害から2年、依然として、放射能漏れによる各種の汚染や災難が土地や被災者に降りかかっている。特に遺憾なのは、台湾の執政者がこの災害から教訓を学ばないことだ。運転中の原発をすぐに停める決断をせず、国民を驚愕させた第2原発(核二)の固定ボルト断裂事件を起こし、結局疑問だらけのなか、危険を冒して再稼働した。さらに、原発の大量の廃棄物は、長期にわたって蘭嶼(台湾東南部の島。原住民タオ族の居住地。)に犠牲を強いながら持ち込み、無能な執政者のもとで解決の見通しも見えない。

  しかし、今もっとも憂慮すべきことは、第4原発にウラン燃料棒を装填しようとしていることだ。第4原発はこの数年来テスト段階に入っていたが、工期の度々の延長、不具合や重大事故が続き、早くから多くの専門家が「安全と言えない」と指摘している。しかし、台電と政府はいまだに独断専行、さらに5~600億元の追加予算を投入しようとしており、総工費は3,500億近くに達する。工事を急いで、今年の年末までの完成を指示、来年初めにはウラン燃料を装填、「既成事実」を作って、第4発電所から撤退できないようにしようとしている。第4発電所の建設水準を鑑みるに、燃料装填は台湾に巨大な脅威と災難をもたらすだろう。

  反原発運動の前進の歩みは人々を奮い立たせ、この一両年次第に多くの人達が原発の安全性の脆さや電力会社経営の脅しの嘘に気付きはじめた。たゆまざる努力で市民の反原発の願望を引き出した結果、新たな反原発のエネルギーが次々と誕生し、反原発の旗が立ち、市民行動が一つ一つ生まれ始めた。私たちの基本要求はただ一つ:私たちに原発は要らない。欲しいのは安全で、公平な、持続できるふるさとだけだ。

  2013年は台湾の脱原発の鍵になる年だ。私たちは、地域で生まれ党派を超えた脱原発の民意を集約し、施政者も無視できない力となって、私たちの要求を突き付ける。「第4発電所の予算停止、危険な原発拒否!」3月9日の全台湾脱原発大行進は、今年の市民の脱原発のエネルギーを集約する出発点となる。2011年の「太陽に微笑もう、核災害を避けよう」行進から、2012年の「さよなら原発」行進、そして2013年の今年は、第4発電所の燃料装填の脅威に直面し、「危険な原発拒否、第4発電所の予算停止」をスローガンに掲げて要求する。

  3月9日、再び凱道(台北の総統府前の大道―訳注)へ行こう。執政者に脱原発の大きな民意を見せ、政府に伝えよう:「台湾に原発は要らない、国民は自分の未来を決定する」第4発電所の建設停止以外に安全はない。第4発電所予算編成を停止せよ! 我々は原発に別れを告げ、未来へ向かって出発だ!

  2013脱原発行進スローガン
1.第4発電所追加予算を停止せよ
2.第4発電所燃料装填を停止せよ
3.危険な原発停止、第1,2,3発電所を廃止せよ
4.核廃棄物の蘭嶼への移動、核廃棄物政策の全面検討を
5.政府は「電気需要ゼロ成長」政策を実施せよ

  各地の行進は、それぞれ地域の環境保護、社会運動、文化や社会福祉各分野の市民団体が共同で発起し、市民による社会的力量を示し、永続的環境にふさわしいエネルギー政策を要求してください。民間社団、学生団体、商業者、コミュニティ、社区大学、あるいは企業も、脱原発理念を認め、2013脱原発大行進を支持するなら、ネットで申込票に記入すれば脱原発行進の発起団体あるいは協力団体に参加できます。行進当日に、発起及び協力団体名簿で公表する予定です。
発起団体加盟はこのアドレス
http://registrano.com/events/2013nonuke-action

2012年12月16日 (日)

エッセイ ポストフクシマを生きる(下)

                                      くらし学際研究所 落合淳宏

3.少ない放射能なら安全なのか

 それでは、放射線はどれくらいなら浴びても大丈夫なのだろうか。
「100ミリシーベルト以上被ばくした場合に健康に影響が出る」ことは、広島・長崎の被爆者の調査などから科学的にわかっている。福島原発の事故後、テレビなどでこれを都合良く言い換えて、「100ミリ以下なら安全」と説き回って「ミスター安全」の異名をとった学者がいたが、彼の主張は、科学的知識をすり替えた、「原子力ムラ」でだけ通用する「詭弁」であった。

 低線量被曝の影響を立証するには時間がかかる。国際放射線防護委員会(ICRP)は、「放射線誘発ガンは、放射線によって生じた細胞レベルの損傷が誤って修復されるためにおきる。細胞レベルの損傷は、極めて低い線量で引き起こされるため、ガンは被ばく線量に比例して増加する」としている。すなわち、放射線には「これ以下なら安全」という値はないということである。この考えの上に立って、「進んで受け入れることはできないが、耐えることはできる線量」は、一般公衆の場合「1ミリシーベルト/年」とした。ICRPの推定では、被ばく量が、1ミリから20ミリに増加すると、たとえば50才、100万人当たりの誘発ガンによる年死亡数は、12人から230人に増加する。
 日本では、年間5ミリシーベルトを超える区域は「放射線管理区域」として特別な管理をおこない、一般公衆の生活の場は250マイクロシーベルト/3カ月(すなわち1ミリシーベルト/年)以下にすることを法律に定めている。

 文科省は、非常時とはいえ「学校での子どもの被ばく許容量を20ミリシーベルト以下」と発表して、心配する親の憤激を買い、撤回した。年間の線量が20ミリシーベルト以下になる地域を「避難指示解除準備区域」に指定して「住民の帰還を促す」としているが、被ばくをおそれる住民の帰還は進んでいない。「心配」や「おそれ」は、決して杞憂ではないのだ。

 東京大学アイソトープ総合センター長の児玉龍彦氏は、衆議院委員会で、「チェルノブイリ事故直後、5万人を調べても小児甲状腺ガンの増加を証明できなかった。その後、調査を続けて、その疾患が漸増したあと減少に転じ、20年後にやっとゼロに近くなることが分かってはじめて、原発事故が原因であることが学問的に立証された。疫学的証明を待っていては遅すぎる。」と証言している。

  「年1ミリシーベルト以下」というのは、国民が安全な生活を送る権利を保障する最低の「基準」なのだ。

4.原発は電力を担えるか

 旧ソ連では、チェルノブイリ事故のあと原発労働者が中心となり、被災住民も協力して、「チェルノブイリ法」を勝ち取った。「年間被ばく量が5ミリシーベルトを超える可能性のある地域の居住を禁止。1ミリシーベルトを超える地域に住んでいた住民には『移住の権利』を認め、移住の有無にかかわらず補償する。」などの内容で、ロシアに引き継がれ、施行されている。

 日本政府は、2012年4月から、被災地を、避難指示解除準備区域(年間20ミリ以下)、居住制限区域(20ミリ~50ミリ)、帰還困難区域(50ミリ以上)の3区域に「線引き」を始めた。「20ミリ以下なら安全」という「仮説」を被ばく者におしつけようとしている。   
 これに対して、福島の被ばく者は「私たちには憲法で保障された幸福追求権がある。元の福島に戻すことが無理ならば、私たちが納得のいくまでその償いを求める権利がある」と主張する「福島人権宣言」を発した。法が定める「1ミリ以下」で生活できるようにすることを「生存権」として要求しているのだ。
原発列島のなかで誰もが被ばくの可能性がある。福島の被ばく者の生存権を守ることなくして、日本の将来に安心できる暮らしはない。

 福島の事故で「安全神話」は、作り事であることがはっきりした。それでは、あのような事故はどのくらいの頻度で起きると予想されるのだろうか。
 世界の商業炉の延べ運転時間は、14,353炉・年、日本では1,494炉・年だそうだ。この間に、スリーマイルアイランド2号炉、チェルノブイリ4号炉、福島1~3号炉の5つの原子炉が、メルトダウン・暴走などをおこした。1炉当たり、世界規模で考えると3,000年に1回、日本に限定すれば500年に1回ということになる。日本では50基の原発があるから、世界平均で考えて60年に1回、日本に限定すれば10年に1回の事故が想定される。

 死の灰から逃れる方法を人間はまだ知らないし、原発は核爆弾のためのプルトニウムを作り続けるということからだけでも原発は発電設備として適格性を欠く。
 しかし、私たちは不幸にしてフクシマを経験した。
 事故後1年9カ月を経た今も16万人が避難を続け、安心してすめない広大な汚染地。健康の不安。土地と仕事を奪われた。いまもなお毎日3,000人の労働者が高線量のなかで復旧作業を続ける。でも廃炉までのメドは見えない。……
 10年ないし60年に一度、これを続けようと言うのか。人にこの苦しみに耐えろと言うのか。

  これは、いい加減な「電力コスト比較」の問題ではない。フクシマのあとでは、原発を続けるかどうかは「人としていかに生きるか」を根本から問う問題になった。(おわり)

2012年10月 8日 (月)

エッセイ ポストフクシマを生きる(上)

 

                             くらし学際研究所 落合淳宏

 

1. フクシマのあと、原発は倫理の問題になった

 

私は、2011年3月の福島第1原子力発電所の爆発事故のあと、3度福島県入りをした。

 

最初は、その年の6月に、福島県の最北端の新地町を訪れた。福島第1原発から50キロメートル余り離れたこの町の放射線量が通常レベルよりかなり高いことに驚いた他は、仙台平野の南の端の、なめ尽くすような津波被害のすさまじさに息を飲むばかりだった。

 

2回目は同年10月。福島市・郡山市を訪れたあと、いわき市から、9月末に緊急時避難準備区域を解除されたばかりの広野町に入った。いわき駅から広野町まで臨時ダイヤで、1日6本ほどの列車を往復させていた。広野の駅に降り立つと、街には人っ子一人いない。学校も、町営住宅も、無音の町全体が、雑草に埋もれる。常磐線より浜側の草むらには転がったままの車が見える。色の無い風景のなかで、枝もたわわになる熟柿だけが浮き出ていた。

 

そして3回目になる今年6月は、郡山市、福島市で現地を見るだけでなく、双葉町の仮役場(郡山市にある)や仮設住宅に入っている被災者、それに救援・復興でがんばっている福島大学を訪れた。

 

大津波の被災地を訪れたときは、建物がすっかり無くなっていて、座標軸が定まらず、めまいを感じた。それに対して、住居もすっかりそのままなのに誰もいない原発事故の被災地に入ったときは、まるでSF映画の世界に迷い込んだようであった。

 

原発事故被災者の生活は無惨に破壊されていた。たくさんの母親が、戻るあてもなく、子どもを連れて県外に避難している。避難者総数は、1年半たった今も16万人に及ぶ。

 

フクシマの前もあとも、原発が危険きわまりないものであり、廃棄すべきことに変わりはない。しかし、私たちは、これまで見たこともない「惨状」を実際にこの目で見た今、すっかり変わらなければならないのではないか。原発をどうするかは、人間の命をどう考えるのかという根本的な「倫理の問題」になったのだ。

 

 

 

2. これから放射能はどうなっていくのか

 

福島県はホームページに放射能汚染地図を載せている。事故から1年半を経過した今も汚染はそんなに減っていない。福島第1原発から北西の方向30キロメートルの長さの帯状に、40ミリシーベルト/年を超える、特別に高い汚染地域がのびている(後述するが、日本の法律では、一般公衆の被ばく限度は年当たり1ミリシーベルトになっている)。汚染は全県に広がる。原発事故被害者が避難している県北の福島市で平常値の15倍、県中の郡山市で11倍の放射能がある。汚染の大部分はセシウムである。

 

セシウム137は、放射能の強さが半分になるのに30年かかる。自然界では雨で流されたりしてこれより少し早く減るが…。福島第1原発があった大熊町では8割、双葉町で5割の人々が住んでいた地域は、これから10年先でも、年20シーベルトを下回らないだろう。10年たっても人は安心して「町」に住めない。

 

福島第1の事故では、汚染水を含めて150万テラベクレル(放射能の量の単位)が放出された。1986年のチェルノブイリ原発事故では、520万テラベクレルであった。チェルノブイリは事故から35年を経た今、半径30キロメートル以内とそれより遠方の「ホットスポット」と呼ばれる地域に人は住めない。

 

「原爆で今後60年間は草一本生えないと言われていたのに、広島は繁栄している」という人がいるが、どうなのだろうか。

 

広島では、ウランが一瞬で核分裂し、巨大なエネルギーが運動・熱・放射線の形で放出され、同時に「核分裂生成物=死の灰」が降り注いだ。爆発時の強烈な放射線によって、「急性放射線症」で多くの人が即死ないし数週間以内に死亡した。そしてその後も、「死の灰」による低線量被曝の後遺症で、死に至り、あるいは今も苦しんでいる多くの被爆者がいる。

 

原子力発電では、連鎖反応をゆっくり起こさせて、エネルギーを熱の形で取り出す。反応は圧力容器のなかに閉じこめられ、高レベル放射線による被害はない。しかし、グラム当たりのウランがうみだす「死の灰」の量については、ほとんど差がない。

 

広島では、800グラムのウランが核分裂した。現在の平均的な原子炉では、1年でおよそ1トンのウランを核分裂させる。大まかに言って、一つの原子炉で、1年間で広島原爆千個分の「死の灰」が作り出される。今回の事故では、メルトダウンなどで3つの原子炉圧力容器から外部に漏れた「死の灰」の何割かが、水素爆発によって飛び散り、放射能の雲になって雨や雪とともに「死の灰」を降り注いだ。

 

低線量被曝という点では、福島は広島よりもチェルノブイリに似ているのだ。(つづく)

 

 

 

2012年4月18日 (水)

迷い、ためらいながら、自分の立ち位置を探り求める監督たち

        -震災ドキュメンタリー映画4作品を見て-

                        くらし学際研究所 垂水英司

東日本大震災から既に1年が過ぎ,ぼつぼつとドキュメンタリー映画が劇場上映されるようになってきた。最近関西で公開された「311」、「大津波のあとに」、「槌音」、「friend after 3.11」の4本を見た。あの大きな災害の現実にたじろぎながら、ともかくも現場に立って惨状をフィルムに切り取り、迷い、ためらいながら人々にインタビューを試みる。被災の情況を撮影しながら、自分の立ち位置を探り求めるような作品、全体としてそのような印象を受けた。

「大津波のあとに」は1970年鹿児島生まれ、アニメ制作会社やフリーの助監督として活動していた森元修一監督の作品。東京の自宅でテレビにくぎ付けになって悶々としていたが、震災から10日後、ただ一人被災地へ向かPhotoう。仙台、東松島、石巻を10日間ほど撮影した記録だ。車の進行に合わせてゆっくり、そして静かに展開する被災地の風景が延々と続く。言ってはいけないかもしれないが、私は「美しい映像だなー」と思う。森元は、破壊されてしまったこの場所には人がいたのだ、そのことを忘れてはいけない、とくりかえし自分に言い聞かせる。そうしないとそれを撮影するという行為を正当化できなかったという。そしてまた、撮影するべき対象はやはり人ではないのか、と考える森元も、「すさまじいまでに日常が破壊された風景のなかにいる地元の方にカメラを向けることはその日もできませんでした。今日こそは試みなければ・・・」という日々が続いたようだ。
最初に成り行きのような形でカメラを向けた男性の口から、生後3カ月の子供が流されたことがさらりと語られる。嘆き悲しんだ口調でなかったことが却って森元にはショックだったという。石巻では湊小学校の仮設の校舎で行われた卒業式の様子をカメラに収める。そして多くの学童が犠牲になった大川小学校でも人々にカメラを向けていく。しかし、人に向けた目線は、問いただしていくのではなく、聞き取りながらカメラに収めていくといった形で終わる。  写真は「大津波のあとに」ポスター(一部)

「槌音」は 1986年大槌町出身で、大学在籍時から自主映画制作をしていた大久保愉伊の23分の作品。「大津波のあとに」と併映されてきた。震災から2 週間後の3 月25日東京から大槌に帰省し、生まれ育った町と全く違う情況を見て驚愕する。その時カメラを持ち込むことができなかった彼は、スマートフォンで風景を記録し続けたという。彼もやはり、町民や家族に対しカメラを向けることはできず、ひたすら町を歩き風景だけを記録した。
Photo_2帰京してから、東京に持ち出していた震災前の大槌の映像と震災後の大槌の映像とを編集し、何か作ろうと思い立つ。「それは何のためでもなく、ただただ自分が現実と過去を受け入れる事のできない夢心地な気持ちをなんとかしようとしていたから」という。
ほとんど何もかも流された街と生活の営みのあったかっての大槌が交互に映しだされる。破壊された自宅の姿とホームビデオで撮っていた映像が入れ替わる。そして、カモメか重機の音しか聞こえない今の大槌、電車の音や祭りや日々の生活の音が響いていたかつての大槌。二つの音の対比も交錯する。それが「槌音」というタイトルになったようだ。 写真は「震災前の大槌の祭り」

「311」は、映画監督森達也、映像ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治の共同監督作品。いずれも既に実績をもった映画人の4人は、大震災発生から2週間後、震災をその目で確認するため、一台の車を運転して被災地へと向かう。映画を作るということでなく、現場を確認することが共通の目的だった。撮影するうちに自分たち自身も、舞台裏の姿や声も含めて被写体になっていく。
ガイガーカウンターの反応におびえながら東京電力福島第一原子力発電所へ近づき、津波に打ちのめされた被災地を走り、そのすさまじさに息をのむ。石巻市立大川小学校ではわが子の遺体を探し続ける母親の姿を見つける。その横へ行ってためらいがちに「見つかって欲しくない気持ちもありませんか…」と言葉少なく質問する森監督が映し出される。「もうそんな時期は終わったよね。」とうなずき合うお母さんたちに、次の質問が途切れる。さらに、見つかった遺体に近づいて撮影しようとし、遺族の一人が木片を投げつける場面もある。当事者と撮影者の間にある深い感情の隔たりを感じる。Photo_3
「311」の宣伝チラシには、「誰も、観たくなかったはずのドキュメンタリー」「遺族を目の前にしながらビデオカメラを廻し続ける彼らにも厳しい批判が」「映画祭で上映されるやいなや、怒号と賞賛が乱れ飛び」「劇場公開も危ぶまれた本作」などと、刺激的なコピーが並んでいる。私のみた限りでは、「怒号とか賞賛とか」そのように大仰な評価より、自分たちを被写体に含めて撮影し、不格好な姿を提示したところにこの映画の「面白さ」を感じる。そして、そうさせた今回の震災の大きさを改めて実感する思いだ。 写真は、「311」ポスターの一部

「friend after 3.11」は、映画作家としてメジャーな岩井俊二監督による作品。「3.11の後、気がつけば、友達が増えていた」という監督が、東日本大震災後に再会した友人や、ツイッター等を通じて出会った人々と語り、映しとっていくドキュメンタリーである。脱原発という明確なメッセージを軸にした構成になっている。震災後2、3週間の頃に、明確な意図を持たずにカメラを回した、先の3作とは大いに趣を異にする。ほとんど言葉で語らなかった、あるいは語れなかった3作に対し、ここでは多くの人達が登場し、多くの言葉を語る。
京都大学原子炉実験所助教の小出裕章、内閣府原子力委員会専門委員などを歴任している中部大学の武田邦彦、元東芝・原子炉格納容器設計師の後藤政志、反原発の立場で活動を続けてきた文筆家の田中優、経済金融界では異例とも言える脱原発宣言を掲げた城南信用金庫の理事長・吉原毅、環境エネルギー政策研究所(ISEP)の所長・飯田哲也、福島の子どもたちを守るために粉骨砕身する俳優の山本太郎など、そうそうたるメンバーが登場する。既に、テレビなどでおなじみの顔ぶれが多い。監督がインタビューしながら言葉を引き出していく。それぞれの言葉の中に、触発されることも多い。だけど、荒削りで、何を言おうとしているのか明確でなかった3作の「面白さ」を感じることはできなかった。
Photo_4「反原発のジャンヌ・ダルク」として注目の14歳のアイドル藤波心(私は知りませんでした)が登場し、重要な役回りをしている。監督と二人で会話をしながら仙台荒浜の被災地を歩きまわるシーンがある。途切れがちで、とりとめなく続く会話。映画の最後は、反原発ソングを歌うバンド『Frying Dutchman』(これも知らなかった)の街頭ライブが長々と映しだされる。映画全体としては、まとまりのつかない戸惑い感が残った。ああ、やっぱり岩井監督もこの大きな震災に自分の立ち位置を探しているんだなと、私は勝手に断定したのである。 写真左・藤波心と右・岩井俊二
      (本稿の記述では、それぞれの公式サイトを参照し、写真を拝借しました。)

 

2012年1月18日 (水)

東日本大震災被災3県調査報告連載第5回(最終回): 仙台平野南部の山元町、新地町

                                  くらし学際研究所 落合淳宏
 最終日の14日は、国道45号線を南下して宮城県山元町、福島県新地町に至る。元・山元町長の森久一さんが、まず海岸線を一望できる明通峠に連れて行ってくれた。眼下に、かつて江戸時代、伊達藩の豊かな台所を支えた仙台平野が広がる。この地域は、明治と昭和の三陸大津波でほぼ無事だったため、「仙台平野は津波被害が少ない」と認識されていたそうだ。そのためか、津波から逃れる高台も警報装置もなく、津波に対する防災はほとんど無かった(実は869年の貞観津波と1611年の慶長津波で大きな被害を受けていた)。今度の大津波は、海岸線からほぼ3キロ離れた6号線の土手まで押し寄せ、道路や河川で高架になった部分からさらに内陸に流れ込んだ。土手より海岸側は流されて何もなく、内陸側も5キロほど広がる田圃は塩水のため褐色に枯れている。
 海岸沿いの「陸前浜街道」を南に走る。このあたりはイチゴ栽培が盛んで、「イチゴ御殿」などといわれる大きな家屋が並んでいたそうだが、津波にぶち抜かれた鉄筋の小学校の建物Gakkou_2
(写真)以外はコンクリートの土台だけが残る。寄せる津波が阿武隈山地と海岸の間にある高台に犠牲者を打ち上げ、引く波で沖に奪っていった。
 山元町の南は福島県新地町、福島第一原発から約50キロメートルの距離にある。浜街道と6号線の間に常磐線が走っていたが、山元町の山下駅や坂元駅も、新地駅も無惨。坂元駅や新地駅では、レールもなく、平地にただ跨線橋

Kosennkyou

(写真)だけが浮かんでいた。
新地町はヒラメの養殖に成功した人が「ヒラメ御殿」をたてていたそうだが、土台すら残っていない。平成6,7年に運転を開始した相馬共同火力発電所(石炭、100万キロワット×2基)のために作られた防波堤・岸壁に津波が跳ね返って新地町を飲み込んだのではないかと地元のひとは言っているという。
森さんはつぶやく、「伊達の時代に逆戻りした…」
ふと線量計に目をやると、針は仙台で見たときの2倍を指していた。