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2019年3月

2019年3月21日 (木)

「人と歴史が交錯する台湾―少しディープな台湾案内」 17

            台湾に降る雪・陽名山と玉山
                           ―台湾人は雪が大好き
                              チーム〈近隣アジアを知る〉
                                                垂 水 英 司
Sasie171_1  台湾人は雪がとても好きだ。もちろんそ の訳は、台湾では雪を見ることができない からである。 以前、数人の台湾の関係者と能登地震の 被災地を視察していたときのことだ。残雪 が積もる農地を見つけると、彼らは歓声を 上げて駆け込み、大の大人達が他愛もなく 雪合戦を始めた。
  とはいえ、台湾に雪が降らないといえば 嘘になる。
  私が初めて台湾に行ったのは 28 年前の 1991 年だった。年末年始の休暇を利用し て、台湾大学陳亮全副教授(当時)を訪ねた。陳先生は早稲田大学に留学経験のあるまちづ くりの専門家で、神戸市のまちづくりを視察に来られた際に知り合った。台湾初体験だった 私は当然暑いものと思いこんで、コートなしの薄着で来たのだが、案に相違して台北は結構 寒かった。
  陳先生は、まる一日かけて車で台北の町を案内してくださった。まず向かったのが、台北 の市街地に隣接する陽明山国家公園(最高海抜 1,120 メートル)である。複数の火山から形 成される地域で、自然景観や温泉が楽しめる。道すがら、同じ方向に走らす車が妙に増えて くる。陳先生が「雪を見たくて陽明山に行こうとしているんですよ。」と明かしてくれた。 なるほど、少し上っていくと、雪がちらついてきた。決して積もるような雪ではない。それ でもこれは4年ぶりの雪とのことだった。
  次に向かったのは迪化街だ。清朝末期、淡水河の大稻埕埠頭と結びついて、貿易や船荷を 扱う商店で形成されて栄えた街である。今も広くない道を挟んで、擬洋風、中国風など様々な様式のファサードを持つ、乾物、高級食材、漢方薬などの店が軒を連ねている。いわゆる 老街だ。台北市が迪化街の道路拡張計画を発表すると、開発か保存かの論議が巻き起こり、市民による保存運動「我愛迪化街」が展開された。私が訪れたときはまだ論議の最中だった が、その後歴史街区として保存することで決着がついた。今は台北市の代表的観光ポイント の一つとして賑わっている。 迪化街を後にして、新都心開発が進む信義地区に向かった。台北市の都市発展は迪化街を 含む淡水河沿いの一角から始まり、次第に東に向かって拡大していった。当時都市成長が続 く台北市は、さらに東の信義地区に新都心建設を進めていた。すでに世界貿易センターやホテルなどが完成し、さらに台北市政府・議会などが建設中だった。その後、地上 101 階、高 さ 509.2m の超高層ビル・台北 101 などが建ち、今ではすっかり都心らしくなっている。 思えば、私が初めて訪れた台湾は、高度成長、民主化、市民運動の高揚と、若々しい意識 が目覚める時代だった。あれから 28 年、最近では台湾も随分落ち着いてきたなと思う。
Sasie172_2  さて、雪の話に戻ろう。
  台湾本島には、2000 メートル、3000 メートルを超す山々が連なる山脈が、背 骨のように通っている。その中で最高峰 は背骨の中央付近に位置する玉山で、周 辺を含め国家公園になっている。標高は 3,952 メートルあり、3776 メートルの富 士山より高いため、日本が植民地としたとき「新 高山(にい たかやま) 」と名付けた。 一方で、この玉山の一帯は原住民族布 農族、鄒族の伝統領域であり生活の場で ある。玉山は彼らの聖山として、まった く別の名で呼ばれてもいた。このことも忘れてはならない。
  実は、私自身これまで玉山に登ったことはおろか、その姿を眺めたこともない。独立峰の 火山である富士山は、さほど近寄らなくても見る場所や季節に応じた容姿を目にすること ができる。富士山の得難い魅力だ。ところが山脈の中に座する玉山はそうはいかない。以前、 その登り口の布農族の梅山口部落まで行ったことがあるが、そこでも玉山を望むことはで きなかった。容易に観望できない玉山、これもまた別の魅力かもしれない。
  玉山ほどの高山になると、台湾といえども冬季には雪が降り、雪が積もる。玉山での気象 観測は 1953 年に始まったということだが、毎年降雪、積雪が観測されている。
  ところで暖冬だった今年(2019 年)、「お待たせ!玉山にやっと雪。」というニュースが伝 えられた。1 月 21 日午前 10 時 20 分玉山でようやく初雪が降ったのだ。過去 66 年来最も 遅い初雪ということだ。居合わせた人たちは、真っ白な銀世界をみて歓声をあげたと、ニュ ースは伝えていた
  実は昨年(2018 年)の初雪は 1 月 17 日で、これも最も遅い記録だった。地球温暖化の 影響かと早合点するつもりはないが、いつか台湾にまったく雪が降らないという日が来る かもしれない。

2019年3月13日 (水)

「人と歴史が交錯する台湾―少しディープな台湾案内」 16

台湾の歴史を知ろう・台湾歴史博物館
                   ―歴史は一つではない

チーム〈近隣アジアを知る〉
               垂 水 英 司

16  古都台南に国立台湾歴史博物館があ る。町の中心部からかなり離れているた め、これまで行きそびれていたが、先日機 会に恵まれて訪問した。博物館全体は 10 ヘクタールの歴史公園で、緑地や池が広 がる敷地の真ん中に展示教育棟がある。 展示教育棟に入ると、先史時代から現代にいたるまでの台湾の歴史が、映像、模型、オブジェ、文物などを用いて常設展示 されている。「この土地、この民-台湾の物語」というテーマで、なかなか力の入っ た展示だ。では、先史時代からたどり始め ることにしよう。

「先史時代の住民」、「異文化の出会い」、「中国から台湾への移民」、「地域社会と多元的な 文化」と歩を進めると、やがて日本が植民地支配した時代に差し掛かる。そこには先ず 2メ ートル四方ぐらいの色褪せた布が展示されている。これは「台湾民主国」の旗だ。1895 年 4 月 17 日下関条約により台湾が日本に割譲されることが伝わると、激怒した台湾の士紳(進 士など上層階級)や民衆は、5 月 23 日「台湾民主国」の成立を宣言した。ただ日本軍が上 陸すると台湾を捨てて去る指導者も多かったというが、それでも台湾民衆は頑強に抵抗し 各地で交戦した。(乙未戦争)台湾北部に上陸した近衛師団が援軍とともに南下し、台南に 至って「全台平定」を宣言するまでに半年を要し、双方に多くの犠牲者がでた。

  その後 50 年間の植民地時代。その展示が終わるところに、大きな白黒のSasie162
写真が 2枚向かい合っている。1枚は船に乗り込む日本人引揚者だ。日本が戦争に敗れ、当時台湾にいたお よそ40 万人の日本人のほとんどは母国へ引き揚げた。
   別の 1 枚は、中国大陸から台湾へ渡ってくる人たちだ。台湾は中華民国政府の統治下に 入り、さらに 1949 年国共内戦に敗れた中華民国政府が台湾に撤退してくる。この間、およそ200 万人の人たちが中国大陸から台湾へ移 り住んだ。この歴史舞台の大転換は、台湾人が思い描いた母国復帰とはかけ離れたものにな った。新たな支配者の下で、厳しい歴史を歩むことを強いられた。市井では「犬去りて、豚来たる(狗去豬來)」などと語られたという。

  日本の植民地時代はもちろん、国民党政府によって戒厳令が敷かれた時代も、台湾の人たちは、自分たちを主人公として歴史を描く ことはできなかった。 「学校で習う歴史は、中国大陸の歴史だった。」多くの台湾人がこう述 懐する。 台湾の歴史を知ろう。民主化の潮流が高ま る中、こうした思いが多くの台湾人の中にふつふつと沸き起こったのは当然だった。さら に、そのエネルギーがさらに民主を突き動 かした。1997 年、台湾の地理・歴史・社会を対象にした中学校の教科書「認識台湾」が、台湾全土で使われるようになった。国立台湾歴史博物館は、こうした時代の文脈の中で、1999 年設立準備が始まり、12 年の期間を経て 2011 年 10 月オープンしたのである。

  実は、台湾には、この台南の台湾歴史博物館以外に、二つの国立の歴史博物館がある。 一つは、台北駅の近くにある国立台湾博物館だ。これは日本植民地時代に建てられた。1908 年総督府が縦貫鉄道開通を記念して臨時展覧会を開催することになったが、故あって 恒久的な博物館になった。建物は、日本人設計による西洋式建築だ。自然史、工芸産業及び 歷史文物の所蔵・陳列を中心に運営された。 ここから南に 1キロほど、もう一つ国立歴史博物館がある。これは、国民党政府が台湾に遷った後、歷史文化教育を発揚するため、1955 年作った博物館である。設立時は總督府殖產局的商品陳列館を利用して始まったが、後に中国伝統様式の展示大楼を建設した。収蔵品も大陸から台湾に持ち込んだ河南博物館所藏文物などから出発した。

  「国立台湾歴史博物館」「 国立台湾博物館」「 国立歴史博物館」。 館名だけ見ると、よほど目を凝らさないと見間違うほどだが、設立時期、趣旨、外観などの中に、それぞれ異なった背景が潜んでいる。いかにも、歴史が交錯する台湾らしいといえるかもしれない。

  世の中で起こる事象は一つだが、歴史は決して一つではない。そんな思いを深くした国立台湾歴史博物館訪問であった。

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2019年3月 6日 (水)

「人と歴史が交錯する台湾―少しディープな台湾案内」 15

台湾のハンセン病療養施設・楽生院
               ―歴史の証人保存運動 

       チーム〈近隣アジアを知る〉
                    垂 水 英 司

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…ハンセン病施設の保存運動が あることを、私が初めて知ったのは実は台湾でであった。…

  楽生院は、1930 年台湾総督府によって建設された台湾最の国立強制隔離施設である。1000 名ほどのハンセン病患者が、それまでの暮らしと人間関係を断ち切って、それぞれの故郷から楽生院に入所させられ、その後長く苦しい隔離生活を送った。60 年代になり強制 隔離措置が解除され、また治療薬物も開発されたが、多くの入所者は社会復帰がかなわず、 寮内での生活を続けてきた。…

 1994 年この楽生院に地下鉄新荘線の 車両工場を建設する計画が浮上した。…しかし、馴染んだ楽生院を離れて高層の新療養 院に移りたくない患者たちが多く、支援者を巻き込んで、旧楽生院の継続や古跡としての保 存などを掲げた社会運動が始まった。…

 戦前日本は海外に広げた支配地域に、この台湾の楽生院以外、韓国には小鹿島更生園、満州には同康院というハンセン病療養所を建設している。おそらくそれらも、それぞれの地域で、苦難の物語を刻み付けているに違いない。 …

(全文は、 「190305.pdf」をダウンロードしてお読みください。)

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