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2017年10月

2017年10月24日 (火)

くらし学際研究所11月月例会・公開講演会のお知らせ

 11月27日(月)午後6時から、神戸市勤労会館409号室で、月例会・公開講演会を開きます。講師は、兵庫県原水協の梶本修史さん、「核兵器禁止条約ー核兵器のない世界への第一歩ー」と題して、お話しをして頂きます。梶本さんは、長らく兵庫原水協の事務局長として、核兵器廃絶署名運動、非核宣言自治体運動、核兵器廃絶の国連要請行動、非核「神戸方式」守る運動、原爆症認定訴訟など、核兵器禁止・被爆者救援・連帯の活動に取り組んできました。

 今年7月7日、国連は圧倒的多数の国の賛成で核兵器禁止条約を採択しました。原水爆禁止=核兵器廃絶は当たり前のことと思われていますが、国際社会では核兵器が「合法」であり続けてきたのです。その歴史を変えたたたかいを振り返るとともに、国連や各国政府、自治体、市民社会の課題を提起します。また、非核「神戸方式」の値打ちについて改めて考えます。

1711

チラシは
「1711.pdf」をダウンロード
すると、見やすくなります。 
 どなたも参加頂けます。このブログのコメント欄を通じてか、090-4566-8745(落合)にお申し込み下さい。参加費は500円です。

2017年10月 1日 (日)

2017年9月 月例会・公開講演会の報告

  2017年9月25日、くらし学際研究所は神戸市勤労会館で、公開講演会を開いた。Img_2283a_2演題は「9条改憲徹底批判」である。講師は弁護士の深草徹さん。司会は当研究所世話人の垂水英司さん。垂水さんは、風雲急を告げている現在の情勢にふさわしい演題であると述べて開会。続いて、当研究所の代表世話人西澤信善さんが、講師の深草さんの研究論文などから、「専守防衛」の立場であると思うが、安倍内閣によって強行された「安保法制」によって海外派兵を認めることになった。それでも、「部分的な派兵」になっている。そこら辺のことも含めて、深草さんからお話を聞きたい、とあいさつした。垂水さんから、深草さんは1946年愛知県生まれで、1977年に弁護士開業、2013年に弁護士業務の実務を離れ、現在は深草憲法問題研究室を主宰している、などと略歴が紹介された。深草さんは「専守防衛」、「9条の意義、意味」などの根源的研究内容などはブログで連載中などと紹介しつつ、演題に入って行った。大要は以下のとおりである。

<9条はこうして獲得された>

(1)「9条」はマッカーサーによる押しつけか
 「イタリア占領史序説」、「日本占領管理体制の成立」など占領史の研究家、豊下楢彦(関西学院大学元教授、国際政治学者)の著書「昭和天皇の戦後史」(岩波書店・14,15頁)に憲法9条と1条の関連性について次のような記述がある。
「ところで、この間に、新憲法の核心に関わる重要な動きがあった。それは1月24日(事務局注:1946年(昭和21年)1月24日のこと)に行われた幣原首相とマッカーサーとの会談である。幣原が友人の枢密顧問官・大平駒槌に語った会談内容に関するメモによれば、マッカーサーはアメリカの一部や関係諸国から天皇制の廃止や昭和天皇を戦犯にすべきだとの声が高まっていることに危機感をもち、幣原に対して『幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し、日本国民はもう戦争しないという決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとするように憲法に明記すれば、列強もとやかくいわず天皇制へ踏み切れるだろう』と語ったという。
 このメモ(事務局注:大平の娘、羽室ミチ子が父からの聞き書きとして作成した「羽室メモ」のこと)がどこまで正確なものか否かは別として、『実録』(事務局注:「昭和天皇実録」のこと)は、幣原が翌25日に昭和天皇に拝謁し、前日にマッカーサーと会見したこと、そこにおいて「天皇制維持の必要、及び戦争放棄等につき談話した旨の奏上を受けられる」と記している。つまり、新憲法の1条と9条となる根幹の問題が両者によって議論されて「意見が一致」し、しかもこの段階で、その「旨」が昭和天皇に「奏上」されていたのである。」
 天皇制を残すのはマッカーサーの希望であり、幣原が戦争放棄の理想を語ったことに対して、マッカーサーは涙を流して幣原の手を握ったという。象徴天皇制は天皇制の連続性を保持しようとするものであり、9条は戦争の違法性を明記する前向きのベクトルである。豊下の記述通りであれば、「9条」はマッカーサーにより「1条」の代償として押し付けられたものになる。これは矮小化ではないか。実際はどうだったのだろうか。
(事務局注)
  日本国憲法
 第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

(2) ポツダム宣言は9条に直結するか
 京都大学教授で歴史学者の松尾尊兌(まつお たかよし)は、「昭和天皇は真珠湾攻撃の責任を東条元首相に転嫁した」(「論座」2007年2月号)で、「ポツダム宣言には、主権在民、基本的人権の尊重、戦争放棄の三本柱がすでに示されていることを忘れてはなるまい。」と述べている。
 ポツダム宣言を抜粋すると7,9として次のような内容の表現がある。7.そのような新秩序が確立せられるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定する日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものである。9、日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものである。
 これで見る限り、松尾氏はポツダム宣言との関係で9条は論理必然的に出てくる、3本柱が示されているというが、ポツダム宣言と直結して、「戦争放棄」がそこから出てくることには距離がある。
 占領当時の米国務省は日本の軍隊をなくす考えはなかったものと思われる。国務長官の占領軍課長ジョージ・アチソンへの訓令では、天皇制が残されない場合と天皇制が残される場合に区分して、「以下の規制が必要となろう」と言っている。訓令の(5)として、「将来認められると思われる軍のいかなる大臣も文官でなくてはならず、軍人が天皇に直接上奏する特権は除去される」との表現がある。軍が天皇の統帥権に基づく横暴を規制する明確な訓令であるが、「戦争放棄」までを考えたものではない。
 このように、ポツダム宣言と9条との間には空隙がある。それは日本が自覚的に自主的に埋めて行ったものと考えられる。

(3)ポツダム宣言と9条の空隙はどのように埋められて行ったか
 (事務局注)1945年10月9日、東久邇宮内閣に代わって幣原喜重郎内閣が組閣された。幣原首相は10月11日、占領軍総司令部を訪問した際に、最高司令官マッカーサーから明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆を受けた。同月25日、国務大臣松本丞治を長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を発足させた(芦部信喜「憲法」、23頁)。
  日本国憲法制定、とりわけ軍事関連条項をめぐる主な動きとして、次のようなものがある。
①「憲法改正要綱」(松本甲案)(事務局注:明治憲法の条文改正案を内容とするもの)
 ・第11条中に「陸海軍」とあるを「軍」と改め、かつ第12条の規定を改め、軍の編成及び常備兵額は法律をもって定めるものとする。
 ・第13条中の宣戦講話は帝国議会の協賛を経ることと改める。
 ・第20条中の「兵役の義務」は「公益の為必要な役務に服する義務」と改める。
 このような内容の「松本案」が総司令部に提出された(事務局注:1946年2月8日)。この松本案提出前の1月24日に幣原首相はマッカーサー最高司令官と会談し、「軍
備の撤廃・戦争放棄」などの平和主義思想を語ったといわれる。
②軍事関連条項を削除する動き
 入江敏郎(当時法制局次長・法制局長官を経て、最高裁判事)著「憲法成立の経緯と憲法上の諸問題」(第一法規出版)に掲載された、入江、宮沢俊義、佐藤功らとの座談会の反訳文中で、当時法制局の一員で後に中大学の教授となった佐藤が次のように発言している。「楢橋さんと石黒さん(石黒武重・内閣法制局長官)が…「日本」軍から伝えられたということで、改正案では「天皇ハ軍ヲ統帥ス」という文句は削ってもらいたい。それを残しておくと天皇制もふっ飛んでしまう。平和国家という一本槍で行きたい。…そうしたら松本先生が、…独立国家たる以上、軍がないということは考えられない…。…マッカーサーと交渉してそれが[軍規定を残すことが]できないというのならもちろん削る。…
 美濃部先生(事務局注:「天皇機関説」の美濃部達吉のこと)が、憲法を改正する以上は日本は独立国家たることを前提としてやるべきで…軍の統帥を置くことも当然[発言]…
 宮沢先生が発言して…向こうの意向に関わらず、平和国家という大方針を掲げる以上、日本には道がない…むしろ置かない方がいい…。」
 これは、[日本]軍(第一復員省総務局長吉積正雄・最後の陸軍軍務局長)から、「憲法改正要綱」の軍関連事項を削除すべきだという申し入れを受けた後の1946年2月2日の憲法問題調査委員会での議論の模様である。憲法問題調査委員会では、これ以外の案も検討。宮沢、入江、佐藤達夫(法制官僚・法制局長官)がまとめた松本試案(乙)、宮沢が単独でまとめた宮沢甲案、これらにおいては、いずれも軍関係規定は削除されることとなっていた。
 勅選の貴族院議員で東大教授でもある宮沢俊義は、雑誌「改造」の1946年3月号で、「憲法改正について」次のように述べている。「…日本を再建する路は平和国家の建設をおいてほかはないのだといふことを銘記すべきである。憲法改正は専らこの理念に基づいて為されなくてはならない。
たとへば、憲法改正において軍に関する規定をどう扱うべきかの問題を考えて見る。現在は軍は解消したが。永久にそうだといふわけではないから、軍に関する規定はそのまま存置すべきだといふ意見もあり得よう。しかし、日本を真の平和国家として再建していこうといふ理想に徹すれば、現在の軍の解消を以て単に一時的な現象とせず、日本は永久に全く軍備をもたぬ国家―それのみが真の平和国家である―として立っていくのだといふ大方針を確立する覚悟が必要ではないかと思ふ。」
宮沢は1945年9月28日、外務省で行った「ポツダム宣言受諾と憲法・法令の改正の要否」という講演で、軍隊の解消に伴い、兵役の義務、戒厳、非常大権を定めた条項は存在の理由を失うと述べるにとどまり、憲法改正不要の立場であった。これからすれば、宮沢は重要な転向・前進といえるのではないか。

(4)空隙を埋める主体的努力の実例
 1946年2月13日のGHQ草案が出されるまでに、民間草案と言われる一群の憲法改正案がある。
・ 憲法研究会の「憲法草案要綱」はGHQが参考にしたと言われ、軍事関連条項は完全にシャットアウトされている。「労働の義務」条項はあっても、「兵役の義務条項」は存在しない。
・同研究会の有力メンバーであった高野岩三郎の「改正憲法私案要綱」は、天皇制廃止・共和制を打ち出し、軍事関連条項は存在しない。
・自由党の「憲法改正要綱」も軍事関連条項はない。
・日本共産党案の1945年11月11日の骨子には、軍事関連条項は予定されていない。翌1946年6月29日発表の「日本人民共和国憲法(草案)」には、第5条に「日本人民共和国はすべての平和愛好諸国と緊密に協力し、民主主義的国際機構に参加し、どんな侵略戦争をも支持せず、またこれに参加しない」とあるのみで軍事関連条項はない。
 また、「平和国家」への提議も続出した。
森戸辰夫「平和国家の建設」(「改造」1946年1月号)は、「平和国家」には戦争のできない国家と戦争を欲しない平和国家がある。真の平和国家とは、後者でなければならず、「自己の発意と確信において平和を選び、国民の全道徳力を上げてその実現に努力する国家」である。そのためには以下の三つの要件が必要である。①「独立自由の国家」であること。②「平和の追求者しての国家」であること。③「理念的平和主義に留まることなく、実践的方法論的平和主義に進出すること」である。
「平和国家」についての考え方は、1945年9月4日の第88回帝国議会開院式における「平和国家確立の勅語」、1946年1月1日の「新日本建設に関する詔書」にも示されている。とりわけ、1945年9月の「平和国家確立の勅語」と比べると1946年1月1日の「人間宣言」詔書は格段の前進がある。前者においては、単に「平和国家の確立」と「人類文化に寄与」が、謳われていたに過ぎない。後者にあっては、「平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、民生の向上をはかり新しい日本を建設」、「徹頭徹尾、文明を平和に求める決意」、「産業と文運の振興のため、勇気をもって進むこと」、「人類の福祉と向上のため、絶大なる貢献」などが書き込まれている。ここには、わが国一国だけの平和主義の確立だけではなく、戦争放棄の普遍的・人類的課題が謳われていると解することができる。起草者、幣原の思想が示されているのである。

(5)戦争放棄・戦力不保持へ…幣原の寄与
 幣原には、戦争放棄への思想をはぐくむ経歴と実績があったが、それを決定的にした出来事があった。それは、敗戦の日、1945年8月15日の午後、彼が日本クラブで天皇の放送を聞いたあと、帰宅の途次電車の中で起きた出来事である。30代の男が、「自分は目隠しをされて屠殺場に追い込まれる牛のような目に逢わされた。けしからんのは我々を馴らし討ちにした当局の連中だ」と叫び、群衆がこれに呼応するという光景を目撃したことである。
 幣原は「外交50年」(中公文庫)に、この出来事について次のように記述している。「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、固く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を撤廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。」。
 幣原は、日本国憲法制定後、繰り返し、以下の原稿を用い、国民に9条への理解と賛同を求めている(幣原平和財団編「幣原喜重郎」)。
「我国が対外関係において執り来たった行動を、冷静に、客観的に顧みてみまするならば、遺憾ながら正しい道筋を踏み誤った事実を認めざるを得ません。・・・・として自ら省み、己を攻め、如何に辛い試練でも耐え抜く決心を固めております。この自己反省のない処に不平や煩悶が起こるのであります。・・・・新日本は厳粛な憲法の明文を以て戦争を放棄し、軍備を全廃したのでありますから、国家の財源と国民の能力を挙げて、平和産業の発達と科学文化の振興に向け得られる筋合いであります。従って国費の重要な部分を軍備の用に充当する諸国に比すれば、我国は平和的活動の分野において、遙かに有利な地位を占めることになりましょう。」。
 「マッカーサー回想記」には、次のような記述がある。「首相はそこで、新憲法を書き上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切持たないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、また日本にはふたたび戦争をおこす意志は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった」。
 さらに、幣原の憲法9条に対する考え方について秘書官であった衆議院議員平野三郎の「平野文書」に次のような幣原との問答の記述がある。
問 「かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日は御閑のようですから是非うけたまりたいと存じます。実は憲法のことですが、私には第9条の意味がよく分かりません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうするといずれ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになるわけですか」
答 「いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。」

(6)まとめ
 戦後の民衆レベルでの戦争と軍への嫌悪の情と、平和の到来を歓迎し、二度と戦争を引き起こさせたくないという心情が、平和主義国家建設の勅語やGHQが次々と打ち出す民主化指令を触媒として、無意識下において成長し、次第に戦争と軍備の放棄の意思へと化学変化を起こして行った。
 それは、民間憲法草案、幣原と昭和天皇のコラボによる「人間宣言」詔書、1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談、政府における憲法問題調査委員会での軍事関連条項削減の議論と試案作成、当時の憲法学の第一人者宮沢俊義の「転向と前進」などへとさまざまな形をとって、GHQ草案と政府の「憲法改正草案」へと流れ込み、やがて来るべき第90帝国議会における歴史上類を見ないほどに自由闊達な討議と制定後の政府の新憲法キャンベーン、さらには戦後史を彩る国民的実践活動を通じて、日本国憲法第9条が国民的に受容されて行くことになる。幣原は、その流れをひと押ししたに過ぎない。しかし、そのひと押しは決して無視されてはならない。

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